好き嫌い、善し悪しの世界を超える太極観

 好き嫌い、善し悪しの感情は誰でも持っているものです。が、
『好きこそ物の上手なれ』とか、
『子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者』
『孔子先生が言うには、これを知る者(知識を学ぶ者)はこれを好む者(好んで学ぶ者)にはかなわない。これを好む者はこれを楽しむ者(楽しんで学ぶ者)にはかなわない。』
 このフレーズは、聖人に至る学問の道は楽しんで行う者にはかなわない、と解釈されていますが、孔子は『人は誰でも学問によって聖人や君子になれる』と説いたのですから、私は、この言葉を、いかなる学びも、楽しんで行う工夫が大切だと解釈してきました。

 とにかく何事に対しても、『好きだ嫌いだと区別する世界観』は、漢方医学から見れば不健康な心の状態です。
 陰陽太極論では、好き嫌い、善し悪し、美醜など、全てが陰と陽とのペアになって一つの太極(完成形)となるので、両方あってバランスしているのが自然であり、両方の価値観を認める寛容で崇高な精神を支える義と道の心こそが、漢方的に健康な心と言えるのです。

  自分の小さな価値観(我見:がけん)だけで善悪を判断し、その価値観を人に押しつけるような独善的な人(我執着の人)は、 ああすべきだ、こうすべきだ、こうするのが本当だ。あれはおかしい、これは変だ、それは納得できないと、身勝手なことを言うものです。 そうすると、心身のバランスが片寄って、その状態が高じると、病気に至るのです。

 千利休は『春は春らしく、夏は夏らしく、茶を点てるのが茶の湯の極意』と言いました。
日本古来の情緒、風情、価値観からすれば、『春夏秋冬の全部が好きだ。その中でも特に早春の梅の花、梅雨の紫陽花、晩秋の名月は格別に好きだ』と、春夏秋冬それぞれの季節の素晴らしさを愛(め)でるというのが、古来からの日本人の心だと思います。
 全部好きで、特にこれが好きというのは、自然を愛し、社会や人々を愛して慈しむ日本人の心であり、藤原正彦先生の著書『国家の品格』で述べられている日本人の武士道の精神『卑怯を憎み、惻隠の情を大切にする心』に通じるものです。

  『老子』にも著されているように、 いい事も悪い事も、美しいものも醜いものも、陰陽太極論からみれば、すべてがペアで一つのものだから、陰と陽の全てをより良くし、より素晴らしくし、より進化したものにしようと思い、明るくポジティブに受け取る人は、陰陽太極論の真髄を知る人であり、天帝を敬い祀る天子であり、聖人、君子であり、人として健全で素晴らしい心の持ち主であると思います。

 ドラマでも、波瀾万丈で、艱難辛苦にあっても、逃げずに立ち向かう正義のヒーローに、人々は感動します。そして最後にハッピーエンドになると、素晴らしいドラマだったと評価されます。
  孟子が言うように、艱難辛苦の陰も天の大愛から与えられた試練と思い、感謝の心で受けいれて、好き嫌いを超越した義の心、義を貫く義侠心、使命感、忍耐や勇猛心で艱難辛苦を超えていく中に、天に通じる その人の 深く大きな愛情を垣間みることができた時に、人は心から感動し感激するのです。

 だから、常に善し悪しを超えた太極観に立って、それぞれの相手の立場や価値観を考えて、相手のことも認めようとして、自分自身の小我、我見識、我執着を改めよう、改革、改善しようと常に思っている人は、聖人や君子の学びの道を極めていける人なのだと思います。
 同じ物事でも、見る人や捉(とら)える人によって「十人十色」で違うのですから、それぞれの違いを認めて、どちらをも超越した、少しでもより良い素晴らしい見識を求め続けようとする精進努力、つまり孔子の言う学問の道こそが、人として最も大切なことだと思います。

 歴史上にきら星の如くいらっしゃる真の達人達とは、老子の説いた真の太極観に生きてきた人であり、好き嫌いの世界や、良し悪しの世界に生きてなかった人です。春夏秋冬の全部が大好きで、全てをより良くする、という世界に生きてる人達だったと思うのです。
 つまり、世の中に嫌いなものは何一つないと強引に自分の心に言い聞かせ、どんな物事でも好きになる努力をし、好きになるポイントを見いだし、本当に好きになってやり続ければ、真の道の達人になれると思います。
 観音様のように、三十三相に化身して、あらゆる次元の人々に対して、慈愛に満ちた思いを向けて、全てを好きになる努力を続け、艱難辛苦をも受けいれて好きになって、やり遂げる人こそ、漢方の真髄である太極論を正しく理解し実践する達人であろうと思います。

 現実に、そのような方が今もいらっしゃり、各界で、素晴らしい活躍をなさっておられます。私も、できるだけそういう方に近づきたいものだと日々思っていますが、まだまだ、達人にはなれません。